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イラク戦争で考える「戦争という最後の手段」

 イラクの民主化、テロの危険、大量破壊兵器の危険など、あらゆる問題を勘案すれば、戦争はやむを得なかったのでしょうか。

イラク戦争の是非をめぐる、一般的な議論

 戦争反対派は、次のように主張します。

 イラクの国民は、外国の介入を望んでいない。イラクがテロを支援していたとする証拠は何もない。大量破壊兵器を持っている証拠も何もない。国連の査察を継続するべきで、戦争は避けなければならない。

 戦争肯定派は、次のように反論します。

 第二次大戦後の日本も、最初はアメリカに占領されたくなかっただろう。イラクがテロを支援して「いない」という証拠も、大量破壊兵器を持って「いない」という証拠も、ない。最後の望みだったフセインの亡命が実現しなかった現時点では、戦争はやむを得ない。


戦争が最善の策か

 こうした議論は、いわば、戦争が最善かどうかを量る、天秤の議論だといえます。イラクの民主化のためには、戦争による尊い犠牲がやむをえず必要なのか。戦争によってテロは根絶されるのか、それともかえってテロの芽を育ててしまうのか。査察の継続によって本当に大量破壊兵器は破棄されるのか、それとも査察の継続は兵器の延命にすぎないのか…。


最善策に、反対する

 しかし実際には、反対派は、天秤の議論よりももっと根源的な主張を持っているのです。

 たとえ戦後復興がうまくいってイラクの民主化が達成されようとも、たとえイラクが実際にテロを支援していたとしても、たとえ大量破壊兵器を隠し持っていたとしても、それでも戦争という最悪の手段だけは回避したい。国連査察の継続をはじめとした、あらゆる手を尽くそう。たとえ、それが次善の策(戦争よりも効率の悪い策)であったとしても。

 すなわち、「あらゆる次善策を尽くしてでも、戦争という行為だけは絶対に避ける」。これが、戦争反対派の根幹を成す考えではないでしょうか。


地球からひとつ、選択肢をなくそう

 日本ではあまりなじみががないかもしれませんが、どんなに恐ろしい犯罪を犯した人間に対しても、死刑だけはなんとしても避ける。どんなに経済効率やエネルギー政策に貢献しても、原子力発電だけは避ける。ヨーロッパを中心に見られるこういった考えも、戦争反対と通じるものがあると思います。そこには、「国益」という言葉ににじみ出るような、利益や効率といった価値判断の基準はありません。

 もちろん、天秤の議論の上でも、アメリカのイラク侵攻に正当性があるかどうか、果たしてそれが事態を解決するのかどうかについては、大いに疑問が残ります。しかしそれ以前に大切なのは、もはや戦争は、問題を解決するための「手っとり早い手段」でもなければ、やむを得ずして踏み切る「最後の手段」ですらなくなったということです。

 これこそが、世界に広がる新しい地球市民の考え方であることに、すべてのひとが、せめて「気づく」べきでしょう。



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